KMのDIARY

30代アラフォーの大阪人です。現在気が向いたときに更新しています。

大阪の地震でトラウマ蘇る。

大阪で地震

違う記事を下書きに保存していたけれど、急遽更新。

朝、私はまだ家にいました。

なんの前触れもなく急に大きく揺れました。

体験したことがある地震はどんどん揺れが大きくなるパターンだったけど

今回は急に大きく揺れ出したのです。

 

揺れている時間が短かったこともあったので

棚の上のものが落ちた程度で済みました。

私の家は変な構造のせいか、リビングのドアの開け閉めをするだけで

私の部屋のドア(木製の引き戸)がバタンバタン大きく音が鳴るのです。

地震が発生した時は全体的に大きな音が鳴り出して視界も揺れて

久々に心臓が早くなりました。

 

阪神大震災を思い出す

私は当時中学生の年代です。

家は全壊全焼し、私自身は生き埋めとなってしまった過去があります。

私の家はものすごく古くて狭い家で、お風呂もない家でした。

二間続きの2階建て築50年の家でした。

 

1階で寝ていたのは、私と祖母。

1月の5時46分と言う時間はまだ暗い時間帯でした。真夜中だと思っていました。

地震が起きたことは揺れを感じてすぐにわかりました。

私の上にものが落ちてきたことも記憶していますがその後揺れが大きくなってから気を失ったのか覚えていません。気が付いた時には揺れが止まっていました。

布団の上に大きな何かが乗っていて起き上がろうとしても起き上がれないことに気づきました。こたつか何かが私の上にひっくり返ったのかと思いました。

 

祖母を呼びました。

「ちょっと動かれへんねん。助けて。」

しばらくして、祖母から返答がありました。

「おばあちゃんも動かれへん。体が挟まっとるねん。」

 

この祖母の発言から、初めて尋常じゃないことに気づきました。

その後2階で寝ている母親に助けを求めることにしました。

「ちょっとお母さん、動かれへんから助けて。」

母親がまた尋常じゃないことを言い出します。

「階段が潰れてて下に行かれへん。」

 

この時点で母親は動ける状態であることを私は知りました。

この状態では私と祖母は、母親になんとかしてもらえないと助からないことに気づきます。そして動けない私は縦に起き上がれないなら横側には動けるだろうと思い、布団の横から這い出るようにしてみたところ、足が横側の空白を捉えました。

 

これで起き上がれる!

と思ったのもつかの間、横側に這い出て、手を上に上げたところ、電気の蛍光灯が私の手に当たったのです。その時はまだ気づいていませんでした。家の2階部分が1階になっているということを。

 

「おばあちゃん、蛍光灯が落ちてきてるわ。天井が落ちてきてしもたんかな。」

と呑気なことを言っていると余震がやってきます。

 

「もうおばあちゃん動かれへんからあかんわ。」

「何言うとるん。お母さんが助けに来てくれるからもうちょっと待っとこうや。」

「腕が挟まって抜けへん。おばあちゃんは動かれへん。」

当時の私は、そんなこと有り得ないと思い、おばあちゃんに頑張れ頑張れと言い続けていました。なんと無謀なことでしょう。状況を未だ把握できていなかった私は立ち上がれないまま、体育座りの格好で地震発生から6時間そこでおばあちゃんと声をかけあいながら光の一筋も入らない潰れた1階部分で過ごすことになったのです。

 

運よく近所の親戚等が応援に駆けつけた。

私と祖母は崩れた土壁に穴を開け、そこからジャッキで持ち上げて邪魔になっている折れた柱を切り、助け出されることになりました。

 

「祖母を先に助けてあげて」

「私は怪我してないから自分で出れる」

 

祖母は親戚の人たちに引っ張り出される形で救助されました。顔中あざだらけになって真っ青になっていたのです

 

一方私は無傷で自分で這い出て行きました。

みんなおばあちゃんにかかりっきりで私が出て来たときには、誰も周りにいないと言うとても悲しい思いをしたわけですが・・・w

 

穴を開けてもらって光が差した瞬間のことを私は忘れることができません。

変に見てなくてよかったと思いました。

私は本当に運が良かったのです。

死んでておかしくなかったのです。

私がいた場所は、ちょうど、柱と柱の隙間で、屋根部分にあたるところに仏壇が倒れかかっていてそれが支えとなっていたので無傷だったのが分かったのです。

それまでは、全く光がなかったので、暗がりの中、手探りで光景を想像しながらだったから目に見えていたら恐ろしくて余計にパニックになっていたかもしれません。

 

そして、その救出後さらに6時間後、家が燃えていることをテレビで知るという1日でした。震災後1ヶ月間は、家族でまとまって過ごせる避難先がなく、バラバラの避難先で過ごすことになりました。でも、あの時の私はただただ家族がみんな生きていたことが救いでした。会えなくて寂しい気持ちにもなりましたが、あの時の恐怖からの安堵感も相まって思ったよりも普通に過ごせていた気がします。

 

地震以降は真っ暗闇で寝るのが怖くなる

真っ暗闇で過ごしたせいか、私は、あれ以降窓のカーテンは薄いカーテンの物じゃないと安心できない体質になりました。夜に電気を消しても街灯の光がちゃんと分かるような物だったり、今現在はブラインドですが、光が必ず入るような状態にしています。ホテルなどの重厚なカーテンは締め切るのが怖いので薄明かりの電気をつけるか、少しカーテンを開けるような形にしています。

 

そして揺れを感じると、すぐにあの光景が蘇り、心臓が早くなり落ち着かなくなります。周りが気にしすぎと言うほどに怖がることもあります。鳥取地震が起きた時も淡路で地震が起きた時も、居場所は会社とかだったので人がいて安心していましたが、今日のように家にいる時だとあの時のことがすぐに思い出されてしまうのです。

 

備えあれば憂いなしなんだけど・・・。

家が全壊全焼してしまった経験から、非常持ち出し袋を持っていても、いざという時取り出せないじゃないかという気持ちがあり、用意するだけ無駄なんじゃないかと思っていました。

 

私が個人的にあの時に一番困ったことがトイレでした。

避難先のトイレが断水で使えなかったりして、簡易トイレを設置してくれる自衛隊の人たちが来てくれるまではかなり時間がかかります。だから100均で売っている簡易トイレとかの用意は必要かなと思っています。また、家が無事な場合であれば、古新聞紙なども束にしてトイレがわりに使うことができます。(小の方は吸水は難しいかもしれませんが)

 

持ち出せなければ意味はないかもしれないけど、備えを作っておくと言うことは、その分、身を守ったり、他人を守ることには繋がります。

環境や各々の立場によっても備えるべき物は変わってくると思います。

ぜひ、備えましょう。と自分の言い聞かせる意味も込めて。

 

今日久々に、トラウマが鮮明に蘇ったので急遽記事にしました。